私の最初のピアノの先生は
齋藤登先生。
転勤族の娘でもあったので先生は結構変わりました。
しかし、この先生に教わったものは本当に大きい。
既に小学校あがるか上がらないかの頃、ソナタ形式とかバロックとか習ってるのね・・・当時の
色々な楽譜をみると先生の字で書いてある。もちろん幼少の私には
そのまま入れるしか仕方なくて。
しかしそのほかにも人間的なこと、自然のことなど
様々に教わったことは大きすぎるほど。
そんなこんなしてたら、先生のもとを離れるときにいただいた一冊。
先生の作曲したピアノソロの本が出てきました!(驚)
連絡を10年前くらいしても見つからずで
どうしていらっしゃるのか。
それは厳しかったです。大人ですから練習してこないのは一目瞭然ですよね、生徒の弾きかたをみると。そうすると容赦なく親は家の中、子供はわめこうが泣こうが外。私のレッスンの前の子が一度そういうことがあったので、私は一度も練習をサボらず行きました(当たり前ですが)。ただ4冊(たいてい四曲が課題でしたから)すべて家で練習でも3回一つも間違わずに弾けないとやり直しなのです。ですから親はしっかり聞いてないといけませんから。最後の最後で失敗するとがっくり来たものです。また最初から3回通し・・・(TωT)
で、いつだか親に少し反抗的に言った事がありましたが、もちろん先生にレッスンのときに言われ、そしたら先生が「練習中親に向かって言うとはなにごとだ!親に言うとは先生にも言っていることだ」と厳しく叱られました。当たり前ですが・・。
聴音も毎週日曜日、これは小学6年までと、中学と色々別れていましたがそれでもまとまってやります。3回ピアノを先生が弾いて早く先生のところへ持っていって丸をもらう。そんなやり方でした。上級生などは下級生のやっている姿を後ろで見ています。
あとで親に聞けば、先生のところに来た人は先生が手を抜くことなく一応すべてピアニストを目指すという趣旨でやっていたそうです。
聴音も小さいころからすると簡単なものです。
だから試験の聴音の見本を受験のときに取り寄せたりしたことがあったのですが正直「これでいいのか」という驚きを覚えました。
そのとき、先生は本当に手を抜くことなく厳しくやっていたんだなと思ったものです。
何気なくこの楽譜の見開きにはショスタコーヴィチの手紙が印刷されています。
もちろんこの曲への感想を書いた手紙です。
そして中には翻訳。
今では知る由もありませんが、先生はショスタコが好きだったから手紙をしていたのかな?どうなのかな?ということを聞いて見たかったです。
個人的には幅広くやったプロコフィエフのほうが私は好きですが、黄金時代やらいろんな曲を弾いていて、楽しい!汗かける!なんて思える数少ない好きな作曲家。
で、先生の略歴をいまさら見ると(当時私はまだ小学生でしたから、先生に5年くらいしか習っていないのでは?幼稚園からですので)
明治の終わり近くに神戸市に生まれる、とあります。
ちょっと書いてみましょう。
ピアノをクセニヤ・コンパニオン夫人、作曲をエマニュエル・メッテル氏と諸井三郎氏、指揮をローゼンシュトック氏に学ぶ。宝塚歌劇団に楽長・教授として8年在職する。NHK・BK(大阪)作曲、指揮委託となり1951年東京に移住後はAK(東京)で放送音楽に没頭する。1967年訪ソ音楽教育視察団に参加、モスクワ、レニングラード、ハバロフスク等の音楽教育施設を見学する。1968年5月茅ヶ崎市にサイトウ・ミュージックアカデミーを創設し、幼児の音楽教育に専念する。兵庫県文化賞をうける。など。
なるほど。神戸の方だったのですね!
当時の海外は今と違っていくのも大変でしたでしょうし。
なるほど(自己確認の日記だな~)アカデミー創設して
あまり経たないうちに私は習いに行ったのだわ。
厳しかったから。脇が小さいころ甘くならないように
腕を紐で縛られたし(おうちでも)
よく間違うとおうちではぶたれたし。
練習が終わらないと遊びにはいけないし。
何が何でもピアノ!の生活でしたね。
レッスン室は当時としては大きい窓ガラスが一面で、
グランドピアノが二台あり、その奥には段のある和室(
先生がそこから見ていることもあった)ピアノの後ろは
日曜も集まるからでしょうか、広ーいスペースでした。
その辺りくらいまで覚えています。
少なくとも先生と初めてお会いしたときの10倍は歳を取ったのだなあ~
としみじみ・・・。意味はなし。
齋藤登先生。
転勤族の娘でもあったので先生は結構変わりました。
しかし、この先生に教わったものは本当に大きい。
既に小学校あがるか上がらないかの頃、ソナタ形式とかバロックとか習ってるのね・・・当時の
色々な楽譜をみると先生の字で書いてある。もちろん幼少の私には
そのまま入れるしか仕方なくて。
しかしそのほかにも人間的なこと、自然のことなど
様々に教わったことは大きすぎるほど。
そんなこんなしてたら、先生のもとを離れるときにいただいた一冊。
先生の作曲したピアノソロの本が出てきました!(驚)
連絡を10年前くらいしても見つからずで
どうしていらっしゃるのか。
それは厳しかったです。大人ですから練習してこないのは一目瞭然ですよね、生徒の弾きかたをみると。そうすると容赦なく親は家の中、子供はわめこうが泣こうが外。私のレッスンの前の子が一度そういうことがあったので、私は一度も練習をサボらず行きました(当たり前ですが)。ただ4冊(たいてい四曲が課題でしたから)すべて家で練習でも3回一つも間違わずに弾けないとやり直しなのです。ですから親はしっかり聞いてないといけませんから。最後の最後で失敗するとがっくり来たものです。また最初から3回通し・・・(TωT)
で、いつだか親に少し反抗的に言った事がありましたが、もちろん先生にレッスンのときに言われ、そしたら先生が「練習中親に向かって言うとはなにごとだ!親に言うとは先生にも言っていることだ」と厳しく叱られました。当たり前ですが・・。
聴音も毎週日曜日、これは小学6年までと、中学と色々別れていましたがそれでもまとまってやります。3回ピアノを先生が弾いて早く先生のところへ持っていって丸をもらう。そんなやり方でした。上級生などは下級生のやっている姿を後ろで見ています。
あとで親に聞けば、先生のところに来た人は先生が手を抜くことなく一応すべてピアニストを目指すという趣旨でやっていたそうです。
聴音も小さいころからすると簡単なものです。
だから試験の聴音の見本を受験のときに取り寄せたりしたことがあったのですが正直「これでいいのか」という驚きを覚えました。
そのとき、先生は本当に手を抜くことなく厳しくやっていたんだなと思ったものです。
何気なくこの楽譜の見開きにはショスタコーヴィチの手紙が印刷されています。
もちろんこの曲への感想を書いた手紙です。
そして中には翻訳。
今では知る由もありませんが、先生はショスタコが好きだったから手紙をしていたのかな?どうなのかな?ということを聞いて見たかったです。
個人的には幅広くやったプロコフィエフのほうが私は好きですが、黄金時代やらいろんな曲を弾いていて、楽しい!汗かける!なんて思える数少ない好きな作曲家。
で、先生の略歴をいまさら見ると(当時私はまだ小学生でしたから、先生に5年くらいしか習っていないのでは?幼稚園からですので)
明治の終わり近くに神戸市に生まれる、とあります。
ちょっと書いてみましょう。
ピアノをクセニヤ・コンパニオン夫人、作曲をエマニュエル・メッテル氏と諸井三郎氏、指揮をローゼンシュトック氏に学ぶ。宝塚歌劇団に楽長・教授として8年在職する。NHK・BK(大阪)作曲、指揮委託となり1951年東京に移住後はAK(東京)で放送音楽に没頭する。1967年訪ソ音楽教育視察団に参加、モスクワ、レニングラード、ハバロフスク等の音楽教育施設を見学する。1968年5月茅ヶ崎市にサイトウ・ミュージックアカデミーを創設し、幼児の音楽教育に専念する。兵庫県文化賞をうける。など。
なるほど。神戸の方だったのですね!
当時の海外は今と違っていくのも大変でしたでしょうし。
なるほど(自己確認の日記だな~)アカデミー創設して
あまり経たないうちに私は習いに行ったのだわ。
厳しかったから。脇が小さいころ甘くならないように
腕を紐で縛られたし(おうちでも)
よく間違うとおうちではぶたれたし。
練習が終わらないと遊びにはいけないし。
何が何でもピアノ!の生活でしたね。
レッスン室は当時としては大きい窓ガラスが一面で、
グランドピアノが二台あり、その奥には段のある和室(
先生がそこから見ていることもあった)ピアノの後ろは
日曜も集まるからでしょうか、広ーいスペースでした。
その辺りくらいまで覚えています。
少なくとも先生と初めてお会いしたときの10倍は歳を取ったのだなあ~
としみじみ・・・。意味はなし。